newsletter

反射光のみが再現できる品質

Posted by local knowledge on January 27th, 2023

反射光で再現される色(colour)は、1)視神経系、2)光の波長(=周波数の逆数)、3)光を反射する物質の表面特性、の3つの相互作用の結果として確定します。一方、私たちの日常生活におけるメディア環境は、新聞・雑誌・書籍・絵画・プリントされた写真・スクリーンに投影する映画などの、反射光で認識可能なメディア群と、テレビ・パソコン・スマホなどの透過光(発光体に対する通電)で認識するメディア群に分けることができます。

反射光メディアの一般的な特徴は「情報が(映画などを除き)その場から動けない」ことです。例えば(当たり前ですが)紙に印字された文字はその場から移動することはできません。一方、透過光メディアは、ドット(画素)が明滅を繰り返すことで、その場に立ち止まることなく、常にフローティングしているように見えるという特徴があります。書籍も“電子化”されればレイアウトが動的に変化することで透過光メディアの性質を持つことになります(但し電子ペーパーは、白を酸化チタン(TiO2)、黒をカーボン(carbon black)で表現しているので、正確には反射光メディア、ということになりますが、ここにバックライト(backlight)がつくと、透過光メディアでもあり反射光メディアでもある、と言えるかもしれません。液晶も同様ですね)。

透過光メディアに近い性質を持つ私たちの日常生活での行為が「会話」です。リアルタイムで相手の発言を認識し、記憶の残像としてその一部を残しつつも、大半はその場から消えてしまいます。したがって透過光メディアは、自らをメディアと称していたとしても、本質的にはコミュニケーションに近いと考えられ、全ては“ネット・コミュニティのようなもの”と言い切ってしまっても、中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず、というところでしょう。ウェブメディアもテキストの間違い等はすぐに修正できますから、会話における言い間違いの訂正に近い感覚になります。すぐに修正可能なメディアを長年運営していると、少しづつ覚悟や緊張感のようなものが失われ、殴り書き(殴りながら書くことではありませんよ)が増えるのは「間違っていたら後で修正できるから」ですね。“ウエブマガジン”は決して(紙の)雑誌の仲間ではなく、強いて言えばネット・コミュニティの変形なのです。

それに比べると雑誌や書籍は、致命的な誤植のために刷り直し、などという事態になるととんでもない費用が必要になりますので、制作プロセスに関わる人たちの覚悟は全く別のものになると同時に、繰り返しの確認作業が行われることで、品質の高いものが“定着”します。紙に印刷された文字は「私はここから動かない」と宣言しているわけで、それはその制作に関わった人たちの覚悟を集積した結果でもあります。編集の仕事は1)校正、2)校閲、3)編集に3分割できます。小さな出版社などでは編集者がこの全ての仕事を行うことも多いのですが、もしもそれぞれを別の3人が担当しているとすると、1)は文字の間違いをただす人、2)は内容の真偽を精査する人、3)は企画と構成の担当、になります。3)が企画営業的でお気楽な仕事なのに比べると、2を行う人にはそれとは比較にならない幅広い知識や教養が必要になります。「校正者」は1と2を担当することが多いので、書籍の(内容の)品質を決めているのは校正者である、と断言しても良いでしょう。

一方、品質には内容(Semantics)の品質と形式(Syntax)の品質があります。書籍はコーデックス(Codex:同じ大きさの紙を束ねた冊子)という形式に、そして透過光メディアはディスプレイのサイズと解像度(dpi=dots per inch=1インチ(=25.4mm)あたりの画素数)にその信頼性を委ねています。紙に印字されたインクはその場所から微動だにせず、電気がないのに表示され、(相当高いところからでない限り)落としても壊れません(ついでに言えば、指による超高速ブラウジングが可能=パラパラめくるだけですが)。一方ディスプレイに表示された光は絶え間ない遊動を繰り返し、その場に立ち止まることを拒否し、電源がなければ何も見えず、地上から50cm程度のところからでさえ(床がコンクリートなら)落とせば壊れます。形式が堅牢で内容が覚悟の塊りのような書籍はそれだけで「信頼に値する」ことがご理解いただけるかと思います。ネットビジネスで功成り名遂げた人たちが雑誌や書籍を作りたがるのは、自分のビジネスでは成し得ない「堅牢な信頼性を実現する形式」への憧れに基づくものと想定できます。

内容物を詰め込む箱(形式)に“コンテナ(container)という言葉を割り当てる人もいます。「コンテンツを運ぶ箱」という意味だと思いますが、箱や中身の信頼性ではなくその“運び方”が信頼されているのが新聞です。新聞は報道内容が信頼されているのではなく「毎朝、自宅のポストに確実に届いている」という配送体制が信頼されているのです。信頼されているのは新聞社や新聞の内容ではなく新聞販売店に勤務する配達員の愚直なまでの勤務態度でしょう。私たちが支払っているのは購読料ではなく配送料なのです。配送力が「毎月数千円払うのに値する」と読者は判断しているわけで、それを中身に対する信頼と誤解した新聞社がコンテンツをデジタル化して課金しようとしても、よほどの物好きか業界関係者、あるいはその購読料を会社経費で落とせる人くらいしかお金払わないでしょうね。新幹線の信頼性が営業時間終了後の線路の保守管理体制により担保されている、というように、常日頃私たちが信頼しているものの源泉は、普段私たちがあまり気にとめることがなく、かつ脚光を浴びることが少ない部門や“下請け企業”だったりする、ということにはもう少し留意したほうがいいでしょう。

というわけで、メディアの品質を担保しているのはその内容ではなく、制作プロセス・内容を運ぶモノの物性(物質的特性)・物流体制などである、というのが結論です。これらをひと括りで「形式」と呼ぶとすると、せっかくの高品質な形式を採用するのであれば、それなりの品質の内容にしなければ示しがつかず、襟(えり)を 正(ただ)すことになる、という順序でメディアは作られているのかもしれません。販売部門(circulation)の責任者が社長に昇格するような新聞社であればその未来は意外と明るいのかもしれないし、高度な印刷技術や輪転機の存在がメディア品質の前提になっていることに対して私たちはもう少し自覚的であってもいいような気もします。

なお、同じ文字(text)を電子書籍のような透過光で読む場合と反射光を利用する書籍で読む場合は、脳の発火する部位が異なることが知られています(産業技術総合研究所に所属するリサーチャが昔この辺りを調べたことがあるはず)。この記事にあるように「より理解できる」と断言するのは少し乱暴だな、とは思いますが、「発火する部位が異なる」は「別の行動」とみなすことができるので、電子書籍を書籍の代替物として捉えるのは間違いでしょう(メールと手紙のように、全く別の情報取得行動、と考えるべきです)。また、日本語は、英語のような強い記号性がなく、グラフィック(象形文字の発展形)としてパターン認識がしやすい(パッと見て、だいたい何が書いてあるかをグラフィックとして認識しやすい)という性質があることも考慮する必要があると思います。この辺り、他にも色々言いたいことがあるのでまた別コラムとして書きます。

ローカルナレッジ 発行人:竹田茂

最新コラムはニュースレターでお送りしています。お申し込みは下記から

ニューズレター登録はこちら