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秘密は世間(せけん)の潤滑油

Posted by local knowledge on March 31st, 2023

改めて言うほどのことでもありませんが、ネットワークはノード(node:結び目としての点)とリンク(図にしたときには1本の線、通信の場合は伝送路)で構成されてます。私たちはどうしてもノードの“個性”に関心を寄せがちです。例えばある平面上に「サザエさん」「波平」「マスオさん」という3つのノードを置いたとしましょう。言うまでもないことですが、リンク参照関係がないと「サザエさん」がどのような人なのか正確には記述できません。しかし「サザエさん」と「波平」にリンクを張ると「波平はサザエさんの父親」と表現できますし、「マスオさん」から「サザエさん」にリンクを張ると「サザエさんの夫はマスオさん」が表現できるので、「波平」と「マスオさん」の間に張られたリンクは「義理の父親(あるいは息子)」を表現していることがわかります(正確にはオントロジーを記述しないとこのリンク参照関係は表現できませんが)。

何をぐだぐだとつまらないことを主張しているのかというと、私たちが自分自身を表現しようとするときに「俺はこういう人間だ」と自己言及するよりは、人間関係(=リンク参照関係)で説明したほうがはるかに説得力がある、ということです。いわゆる“世襲議員”などがわかりやすい例でしょうか。進次郎は「純一郎の息子」と説明したほうが進次郎の人物像が掴みやすいはずです。つまりノードの主体性なるものの実態はリンク参照関係でかろうじて担保されている程度の弱いものに過ぎないということがわかります。これは地球上にもしも自分1人しかいないとすると自分を表現する手段がなくなる、ということにもなります(もちろんその場合は表現する必要も「僕って何?」と悩む必要もないのですが)。

これはデカルト(René Descartes)の言う「我思う、故に我在り」(Cogito ergo sum)が必ずしも正しくないことを意味します。後世に伝わる俗説としてのこの“名言”は「自分が何かを考えているという事実こそが自分自身の存在を証明している」という意味として定着していますが(デカルトが本当にそう言ったのかは諸説あるようです)、私たちは人と繋がっていることでしか自分の存在証明ができない、と考えるほうが自然でしょう。すると他界した肉親や知人でさえ、現在生きている自分を表現してくれていることになりますので、その肉親や知人は実は“自分の中では生きている”と考えることもできますし、実際そう感じている方も多いはずです。“人間”がいみじくも「人(ヒト)の間(あいだ)」という言葉で表現されている(古くはこの言葉は“世間”という意味でした)のはまさに「人間関係こそが人の主役」であることの強い主張に他ならないわけです。多くの他者との相互作用や比較でしか自分らしさは見えてこない、ということでもあります。

情報科学の分野では、ネットワーク上で人間関係を可視化するとフリースケールネットワークになり、それがスモールワールドになる、などの面白い話がたくさん出てきますが(詳細を知りたい方はリンク先を参照してください)、現実の人間関係は切断(e.g.喧嘩別れして会わなくなった)、再接続(e.g. 古い知り合いとまた一緒に仕事をすることになった)、新しい接続(e.g. 先日名刺交換した人とは長い付き合いになりそうだ)を、日本国内で言えば1億を超えるノードが日々繰り返しています。ここでの人間関係の強さに大きなインパクトを与えているのが(物理的な)距離だ、というのが以前の主張ですが、もうひとつ重要な要素が存在します。それが「秘密(あるいは嘘)」であることを見抜いたのが、ドイツの社会学者ゲオルク・ジンメル(Georg Simmel)です。

私たちは意識的にあるいは無意識に、相手や状況に応じて秘密の出し入れを臨機応変に行うことで、人間関係を円滑に進めようとします。秘密が潤滑油になっているんですね。例えば仕事上で長い付き合いのある取引先でも、お互い家族やプライベートな話をほとんどしない、という場合があると思います。これはプライバシーを確保しておきたいというよりは、わざわざ打ち明ける必要を(お互いが)感じていない、あるいはそれについては触れないでおこうねという暗黙の合意がある、ということが多いはずです。逆に家族に自分の仕事の詳細や機密を得々と語る人もいないでしょう。それは勤務先の同僚と話せばいいことですからね。また、自分自身の過去の出来事についても、全てをつまびらかにする必要は全くありません。現在の自分を(他人に)説明するのに相応しくないと思う過去の出来事は秘密にしておけばいいだけの話です。一方、特に関心を持っていない人から洗いざらいその人の秘密を打ち明けられても困ります。それぞれの人間関係には秘密の「層」のようなものがあり、私たちはその層を状況に応じて自在に薄くしたり厚くしたりすることで円滑な人間関係を構築しているのだと思われます。

重要なのはこの秘密のコントロール権(=プライバシーのコントロール権)を保持し続けることでしょうか。プライバシーは多くの場合、金銭的なメリットとトレードオフの関係にありますが、注意しなければならないのはそれが不可逆的である(=秘密ではなくなったものを再度秘密にすることは困難であることが一般的)ということでしょう。ジンメルの主張についてはEs Discoveryを、そして日本人の論考では『秘密と恥』(正村俊之 著、勁草書房、1995)または『日本の無思想』(加藤典洋 著、平凡社、1999)あたりが参考になると思いますが、秘密の豊かさをサクッと実感したい場合は星新一のショートショート(ほとんどが新潮文庫)を読むのが手っ取り早いです。どれを読んでもハズレはありませんが、とりあえずは『ボッコちゃん』『ようこそ地球さん』『ノックの音が』あたりが無難かもしれません。なお、「秘密」が星新一のメインテーマであることをいち早く見抜いたのは同じSF作家・新井素子ですが、彼女の父親は星新一の大学時代の同級生です。人間関係って面白いですね。

ローカルナレッジ 発行人:竹田茂

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