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明治翻訳語には要注意

Posted by local knowledge on October 7th, 2022

メディアアーティストの落合陽一氏が最近コンヴィヴィリアリティ(Conviviality )という言葉を連発していることが話題になっています。この言葉は、私の古い仕事仲間の古瀬幸広氏が1996年に発刊した『インターネットが変える世界(岩波新書)』の中ですでに言及されていて、以前(といってもかなり前)彼からConvivialityの解説を直接聞く機会があったのですが、正直「何を言ってるのかよくわからん」と思い、『コンヴィヴィリアリティのための道具』(イヴァン・イリイチ、日本エディタースクール出版部:私の手元にあるのは98年の第三刷)を読んでみたらますますわからなくなった、という苦い思い出があります。何しろ訳者がかの渡辺京二氏(『逝きし世の面影』の作者)ですからねえ。わかりにくくなって当たり前、という気もします。

ともあれConvivialityには「自立共生」という訳が定着したようです。なんの反論の余地もない良い言葉だとは思いますが「だからどうした」という気もします。で、改めて書籍を紐解いてみると「道具は便利だけれど、その道具の奴隷にならないように注意しましょうね」と言ってるに過ぎないことがわかります。すでに私たちは道具の奴隷に成り下がっている(隷属している)ので、今更「自立共生」を謳っても、もはや手遅れのような気もします。故・宇沢弘文氏の『社会的共通資本』(岩波書店, 2000年)のほうが、よほど話が具体的で参考になります。こちらは日本人の必読書ですね。

幕末から明治初期にかけて西洋の学術思想を日本に取り入れるために、福沢諭吉や西周らは翻訳という作業を積み重ねました。これらは「明治翻訳語」と呼ばれ、その功績はとても大きなものだったとは思いますが、全ての言葉が裃(かみしも)をまとった立派で勇ましい言葉になったことがいささか禍根を残すことになります。「世間」しか知らなかった大衆に「社会」という概念が降臨してきた、というような具合です。地に足がついてない概念や美辞麗句をうわの空で語る岸田首相とそれを冷ややかに眺める大衆、という構図が目に浮かびます。ヤナセ(当時は梁瀬商会)が1915年あたりから米車キャデラックの輸入・販売を開始し、日本の道路事情に全くそぐわないデカい左ハンドル車に乗っていることがセレブの証(あかし)のような時代がありましたが、明治翻訳語にはそれと同じ匂いを感じるのです。

この明治翻訳語を断罪している書籍が必ずや存在するはず、ということで探し当てたのが『語源から哲学がわかる事典』(山口裕之、日本実業出版社、2019)です。著者は、平凡社の哲学事典(1971年)から次のセンテンスを引用します。—「カントによれば、悟性は純粋概念の能力と呼ばれ、感性に与えられる素材を自己の形式=範疇に従って整理し、対象を構成する自然界の立法者である」—- こりゃあ普通に優秀な人にとっても意味不明でしょう。タチの悪いギャグとしか思えません。

著者の山口氏がこのセンテンスの原典にあたり、改めてわかりやすい言葉で翻訳してみると「カントによれば、人は物事を理解する時に、感覚器官に与えられた情報をあるがままに受け取るのではなく、個々の人間の理解の枠組みに当てはめてしまう」という日本語になります。これなら「ああ、そうかもな」と思えますよね。単なるunderstandingに「悟性」などという難解かつ格調の高い言葉を割り当てていることが敗因です。わかりやすい/わかりにくい程度の話ならさほど問題はないのかもしれませんが、明治翻訳語は文語体と組み合わせることで戦争と非常に相性の良い文体(Style)になることには一定の注意を払ったほうがいいでしょう。「上陸」や「奪還」など、ビジネスに軍事用語が紛れ込むのは世の常なのかもしれませんが、こういう言葉を乱発する人にはあまり近づきたくないな、とは思いますね。

「木曽路はすべて山の中である」という島崎藤村による曖昧な説明のほうが「中山道における木曽地方の一部区間。途中に奈良井宿・妻籠宿・馬籠宿など数多くの宿場が設置されていた」と説明するより、むしろ木曽路の輪郭を鮮明に想起させてくれる、と思いませんか。文学・詩歌が秘めているポテンシャルは、明治翻訳語を駆使した空理空論だけが飛び交う現代にこそ必要とされているのではないでしょうか(と、偉そうに言うほど私自身は文学に勤しんでいるわけではありませんが)。

ローカルナレッジ 発行人:竹田茂

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