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選択肢が増えると味わう時間は減る

Posted by local knowledge on February 3rd, 2023

発見と発明に明確な差をつけるのは実は案外難しい(=新しい実験設備が発明されたので新しい事実を発見できた、ということも多い)のですが、発見はアインシュタイン(Albert Einstein)、発明ならエジソン(Thomas Edison)と言えば、その違いが分かりやすいかもしれません。発見は(人間も含む)自然の中に潜む法則性を見つけること、そして発明は発見された事実を、生活を便利かつ快適に過ごすための手段として応用して儲けること、でしょうか。発見は自分ができなくても他の誰かがやってくれる可能性がありますが、発明は個人的な創意工夫を前提とした個性的な行為です。発見は長期間の観察・実験を必要とし、それは一人の研究者の寿命の範囲では難しいことも多い。それに加え、成果は時間をかけて積み上がってくるので(Standing on the sholders of Giantsってやつですね)、その収穫率は少しずつ漸減していくはずです

それに比べると発明は、それがたった一つの発見を根拠とするものだったとしても、そこから無限に経済的な展開が可能です。他の発見との組み合わせも自由自在なので、「便利な手段」は論理的には無限に量産可能、ということになります。そしてこの「発明(=便利)の水」が必要量を超えてコップから溢れているのが現代社会なのだろうな、と思います。ヒトは他の生物と異なり「欲望が青天井」なので、未来永劫その“必要量”の見極めは不可能でしょう。個人的にはこんなもの不要だろうと思いますが、これを発明する会社が考える社会的正義を否定しきれない、ということがその必要量の見極めを困難にしています。

まだ私が若い頃、仕事仲間に「豊かさってもっとシンプルに定義できないかね?」と問いかけた時、彼からは「オプション(選択肢)の豊富さで定義できるんじゃない?」という実にスマートな答えが返ってきたのですが、この歳になるとこれが必ずしも正解ではないな、と思うことが増えてきます。オプションが増えると、選択肢の一つ一つを味わう時間が猛烈に少なくなるのです。ホテルの朝食ビュッフェ(buffet)でいろんなものを取りすぎて、食べきれずに残してしまうあの感じです(笑)。「味わう」は「分かる(判る、解る)」に通じるのですが、いうまでもなくこれは時間の関数ですから、1時間半の映画を1時間半でじっくり“味わった”場合と、ファスト映画として“短時間でわかったような気がした”場合に、その理解(の深さ)が同じものであるはずもありません。さらに言えば同じ映画でも1 回見れば十分なものと、繰り返し視聴したくなるものがあります。観賞の都度、新しい味わい方を提供してくれる映画は繰り返し視聴に値する名作、ということでしょう。音楽や読書も一緒です。

落語ファンだった私は、過去にはいろいろな落語家の噺を聴きまくっていましたが、ある時を境に(何かきっかけがあったわけではないですが)志ん朝以外は全く聴かなくなりました。そして志ん朝を繰り返し堪能する(=味わう)時間は、いろいろな落語家の噺を聴いていた頃に比べ、はるかに豊かな時間がゆったりと流れます。この繰り返しの利用に値するものを発見していくことが生活そのものであり、その豊かさにつながるのではないか、と思うのです。これが私がことあるごとに『生活の発見』(ローマン・クルツナリック著、横山啓明・加賀山卓朗=訳、フィルムアート社、2018)の購読を知人にお勧めしている理由だったりします。人間関係(愛・家族・感情移入)、生活(仕事・時間・金銭)、世界(感覚・旅・自然)、慣習(信念・創造性・世界観)などに関する世界各地での歴史を調べ、コンパクトにまとめてくれていますのでぜひご一読ください。

地層は積み重なっていくものであることを私たちはつい忘れがちになります。例えば第4次産業革命が成立するためには第3次産業革命あるいはそれ以前の“革命基盤”が必要で、それも含めた全ての過去の地層が現在の私たちの生活を支えてくれているはずです。新しい地層が猛烈なスピードで(デジタルを中心に)積み重なろうとしているときに、私たちに必要な作業は、過去の地層に埋もれてしまったものを再発見することなのですね。デジタル化を契機に最近積み重なっているものがそこそこ魅力的だからこそ、あえて古い地層に埋もれてしまった「今それを利用するべき古い発明」を発見する旅に出る必要があるのです。ここで重要なのは「経済的に折り合いをつける態度」でしょう。「脱炭素」「ESG経営」「SDGs投資」などのあまりアタマを使ってない極端なプロパガンダは糞の役にも立ちません。

なお、発見=科学は、普遍性のある真実を見つけるという意味では宗教の仲間です。科学では解明できないことを宗教が請け負ってきたわけです。一方、発明=技術は経済の仲間です。科学的な事実を経済行為として転用することが発明のミッションです。従って「科学技術」という言葉の使い方は少々誤解を招くところがあって、可能であれば「科学・技術」という表記にすべきかなと思います(これは村上先生からの受け売りです)。

ローカルナレッジ 発行人:竹田茂

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