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新譜不要の時代の到来

Posted by local knowledge on January 13th, 2023

宇多田ヒカルが『First Love』で1999年に鮮烈なデビューを飾った時、私もこの大ヒットしたアルバムを購入したのですが、この時の第一印象は「ああ、もう新譜を買う必要はないな」というものでした。『First Love』が過去の様々な楽曲の拡大再生産の産物のような気がしたのです(あまりJ-POPには詳しくないのですが、このアルバム自体は極めて優れていたとは思います)。過去に自分の中に蓄積された大量の音楽を再生するだけで充分だ、と実感したのですね。

これは必ずしも私が“ある程度の人生経験を積んだおっさんだから”というわけでもなさそうだなと確信したのは、若い人の間で1974年発売(!)の「The Dark Side of the Moon」(邦題:「狂気」、演奏はピンク・フロイド)が売れている、という話を聞いた時です。80年代初頭からスタートしたデジタル・リマスタリングブームで、古い楽曲もあたかも最新の録音のように聞けるようになりました。70年代の音源でもエンジニアリングがしっかり施されたものであればデジタル・リマスターの効果は絶大です。血眼になって新譜を追っかけなくても、過去の楽曲に(演奏した本人でさえ再現できないような)優れたものが“膨大に”あることがわかったわけです。デジタルアーカイブの勝利です。

したがって、その後、例えば「AIがヒット曲を作れるようになる」と聞いても、その必要性を感じることはありませんでした。なぜなら“わざわざ人工物に依頼しなくとも“すでにあるから”ですね。「AIが絵を描ける」という話も同じで、AI自体の可能性を追求するという話と、その能力を人類が必要としているかどうかは無関係です。特に、文化的活動は人が最もやりたいことなので、その権利をむざむざと手放さなければならない理由が私たちにはありません。一時期、囲碁や将棋におけるAIとの対局が盛んにもてはやされましたが、最近この手の話は全く聞かなくなりました。完全情報ゲームにおいて人はAIには勝てないことが明確になったのも理由のひとつでしょうが、それ以上に重要なのは「面白くない」ことでしょう。ヒトがAIに負けてしまうのが「面白くない」という意味ではなく、単純にヒトとヒトの対局ほどの面白味がないことが判った、ということに尽きるような気がします。

ともあれ私たちは(音楽に限らず)すでに充分なアーカイブを手にしていることについてもう少し意識的でもいいかもしれません。ただ、この手の議論、すなわち「総量」に関する議論は(当たり前ですが)メディアから提出されることは今後もないでしょう。メディアが自己言及しているとき、多くの場合、1)ジャーナリズムの未来、2)ビジネスとしての継続性(BCP)のいずれかを問題視することが多いようですが、前者に関していえば、事実(fact)が人の数だけ存在し、真実(truth)や現実(reality)との区別も曖昧なままジャーナリズムを追求する、というのはそもそも課題自体が不良設定です。汎用性の高い普遍的な真実は作家が妄想する小説の中にしか存在しないのかもしれませんしね。

後者についていえば、衰退の一途を順調に辿っているという状況をユーザーが特段問題視しているわけではない以上、メディア関係者が「新聞はこれからどうなるのか!」と課題設定しても、ユーザーにとっては「そういえば最近、新聞読んでないな」で終了です。出版産業も、団塊の世代への過剰適用によりその規模を無意味に膨張させた過去があるに過ぎず、彼らが頻繁に出入りするのが書店ではなく薬局になってしまった以上、適正な規模に“戻る”だけの話でしょう。いずれにしてもこの2つの問題はあまり真面目に議論するに値しません。それに加えて、総量に関する議論は必ず「総量規制」の話につながる危険性があります。つまり「重要なテーマだけど議論してはいけない」がおそらく正解なのだろうと思います。私たちとしてはメディアとコミュニケーションが分離不能な状態で、かつ総量が膨大なものになっていることをメタレベルで把握しておけば良いだけなのかもしれません。

「情報量」はインターネットの出現により爆発的に増えたわけではありません。1960年代のテレビの普及からエネルギーの消費量と連動する形でその量の増加が始まっています。これが80年代の多チャンネル化、そして90年代の(CATVなどの)デジタル化、さらに94年のブラウザ(NCSA Mosaic)の登場を契機に、(情報量ではなく)通信量(=データ流通量)が爆発したのです。言うまでもなくこの通信量の大半は「動画」によるものです。

ネットワーク外部性(network effect)という言葉を聞いたことのある方も多いと思いますが、これは「ネットワークの価値は、接続されている端末のユーザ数の二乗に比例する」という法則で、電話やFAXが普及する時の原理として引っ張り出されることの多い理屈ですが、この原理がスマホ時代に壊れ始めたのが、通信量が爆発した理由のひとつでしょう。ネットワーク外部性は端末設置にある程度の費用を要することが前提になっていましたが、スマホ時代の特徴は「すべての端末が無料のアプリに成り下がった」という点にあります。スマホは私たちにとっては「端末」ではなく「ネットワークインフラの土台」になっていて、そのスマホの画面に並んでいるアイコン群が「端末」なのですね。「電話」アプリとか「Facebookアプリ」などがずらっと並んでいるわけです。つまりネットワーク外部性はアプリのインストールベースに置き換わった、のですが、このアプリのスイッチングコストはほぼゼロとみなせるので、すべてのアプリが中途半端に普及している、という状態になっている、と考えられます。

本来、電話で済む話にメールが加わり、そこにslackだのchatworkだの、ZoomだのWebEXなどを、自分の意思とは無関係に使わなければならない事態に私たちは追い込まれています。情報量が爆発しているのは確かですが、むしろ私たちの生活を(“タイパ重視”が象徴的ですが)貧乏くさいものにしているのは「端末としてのアプリの氾濫」でしょう。そしてそれらのアプリが「無料」の時に、その価値がユーザー数(=端末設置数)に比例するかどうかは「よくわからない」状態になったのが現代だろうと思います。ダウンロード数がとてつもないアプリだったとしてもそれが「本当に使われている端末」かどうかはわかりません。したがってダウンロード数は発表するが、MAU(Monthly Active Users)がどの程度なのかを公開しないベンダーのアプリはかなり怪しい、と考えていただいてよいでしょう(厳密にはMAU自体もどこまで信用していいのかわかりにくい指標だと思いますが)。私たちがメディアを利用するために使う総時間が増えてる訳ではない以上、どのツールも実際には大きな影響力を獲得できていない、と考えられます。

単なるフィルターに過ぎないはずの代表性も公共性もないアプリが端末のように振る舞い、かつ過去のデジタルアーカイブに優れたものがたくさんあり、アナログツールが少しづつ消えていく、という時代において、私たちはどうやってその(個人的な)情報環境を豊かなものにしていけるのかは面白いテーマだと思います。スケール(規模)よりは密度を重視した無数のクラスターが疎結合しているような状態が安定感があるような気がしているのですが、このあたりはもう少し考えてみようと思います(身も蓋もない結論になるような気がしています)。

ローカルナレッジ 発行人:竹田茂

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