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仮想化されたサービスと仮想化される前のサービスの比較優位検討は無駄

Posted by local knowledge on December 8th, 2023

ある程度の量のデジタルデータを仮想的な小包(packet)に包んで、TCP/IPというプロトコル・スタック(通信手順のルールをまとめたようなもの)を経由し伝送することが「インターネット」です。インターネットは手続きを記述しただけの仮想的なネットワークに過ぎないので、物理層が電話線(ツイストペア・ケーブルなど)である必要はなく、現在は(エンドユーザーにとっては、ですが)無線網が事実上の物理層に該当する、と考えられます。ともあれデータの塊をパケットと呼んでいるあたりからすでに仮想化(AをBとみなす、AをBということにしておく)は始まっているわけです。

本来、電話(通話)は、音声を電磁波に変調して物理的な電話線を通じて伝送し、受け手が復調することで音声が聞ける仕組みとしてスタートしましたが、音声データをインターネットを通じて流す、物理層が無線ということは、電話線を使わずに通話という「サービス」を提供できるようになったということになり、これは、電話がインターネットという仮想ネットワークの上に乗るアプリケーション(サービス)の一つに成り下がったことを意味します(あえて「成り下がった」という下品な言葉を使います)。今や、新聞、書籍、テレビなども全て仮想的なサービスとして、インターネットの上に、電話と同列なアプリケーション(=コンテンツ部品)として配置されてしまった、というわけです。

電話やメディアに限らず、オフィス・学校・展示会・美術館・工場のような、実空間の施設として認識していたものもその機能の一部は仮想化されたコンテンツ部品になりました。例えばテレワークでのウエブ会議は、オフィスという施設のコンテンツ部品化の象徴、と考えられます。実空間(情緒的・視覚的・触覚重視の空間)は、制約(e.g. コロナ禍など)を与えればデジタルの論理空間である程度代替可能だ、ということです(「ある程度」というところがポイントなんですけどね)。

今後は、食事・運動・睡眠のような、身体的感覚それ自体に意味があるもの以外は全て仮想化される、もしくは代替手段としての仮想化の可能性が探られることになるでしょう。良し悪しの判断を傍に置きつつ、徹底した利便性を追求し、サービス提供者とユーザーが結託して「仮想化圧力」を加えているのが現代、そしてその象徴とも言えるのが生成AI(Generative AI)というわけです。ひとたびコンテンツ部品化されれば、ユーザーはそれらを「等価に並列された」ものとして眺めることになるので、新聞と学校をディスプレイ越しに比較してどちらを使おうかと悩む、というような実空間ではナンセンスなことが日常になる可能性もあります。そちらのほうが便利で安上がりだからですが(「便利」という言葉は今後頻繁に登場するであろう重要なキーワードです)、身体的なハンディキャップがある人にとってはこれが様々な社会的行動への参加・参画のための機会(opportunity)になるのも事実です。

仮想化=デジタル化、と捉えるのが現在のメディアにおける言論の基調になっていますが、実は私たちの生活は数字(すうがく)に始まり貨幣、法律などに至るまで、すべてが仮想化の産物、と言えないこともありません。なので、例えば「デジタルマネー」は意味が重複しているヘンな言葉、と感じる程度にはみなさんの感性を研ぎ澄ましておいていただけると乱暴なメディアの言説からご自身を守ることができます。また、仮想化された道具を利用した仕事の最大の弱点は達成感が希薄になることにあります(「便利」と「達成感」はトレード・オフの関係にある、というだけの話ですが)。20年以上に亘ってウエブメディアという仮想的なメディアを作ってきた私が言うのだから間違いありません(笑)。幕張メッセあたりで実施されているイベントの説明員が楽しそうなのは、実空間ならではの楽しさと達成感(=視覚的価値の構築に対する適度な疲労感)があるからでしょう。

仮想化の良いところは利便性だけではありません。サービスを仮想化すると、それが「本来のサービス」の呼び水になることがあるので、仮想化で一儲けして、さらに実空間がそのおかげで活性化する、ということがしばしば起こります。わかりやすいのが美術館ですね。デジタル化された美術品はある種の「プレビュー」になります。そのプレビューだけで満足する人はほとんどいないはずで、どうしても現地に行きたくなる。従って、まず「デジタル化された美術品、あるいはデジタル化された学芸員の想い」でまずは一儲けする手段を構築し、それをマーケティング材料として再活用することで、実空間への(定期的な)集客に結びつけるのが王道です。

仮想化されたサービス(A`)が仮想化される前の同じサービス(A)以上にインパクトを持つ、ということも多いのですが、ここで重要なのは(A)と(A`)の比較優位を検討しないことです。必要に応じて両方使えばいいのです。ただし使い方のTPOを間違えると、両方消えてしまう場合があります。例えば年賀状(A)は電子年賀状(A`)で十分だ、と考え実行しているうちに、電子年賀状を利用する習慣のない相手にこれが届くと、最終的には縮小均衡しますから、メッセージの交換すら行わなれなくなる、ということがあります。これは年賀状という「手紙」のように見える手段の本質が実は「返礼」というプロトコルにあることを忘れてしまったからでしょう。

人間の寿命をはるかに超える長い年月の間に年賀状を交換する習慣が仮に消えてしまったとしましょう。そうすると紙の年賀状を出し始める輩が必ず出現します(たぶん)。年賀状を受け取る習慣のなかった人は「なんて素晴らしいサービスだ!」ということで感嘆するはずです。若い人たち中心に起きているらしい「古民家ブーム」の本質って実はこれに近いな、と思います。過去の生活の中から再発見・再構築したものが、実は時代の最先端になり得る可能性がある、ということです。

などというつまらないことを書いているうちに師走になってしまいました。次回のローカルナレッジ(本の場)は「感性を揺さぶる企画展のつくりかた」として、学芸員の松山聖央さんにお話をお伺いします。「アート思考」を謳うビジネスマンの話とは比べものにならない、圧倒的な現場感覚が彼女のお話の最大の魅力です。乞うご期待。

ローカルナレッジ 発行人:竹田茂

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