
テレビ的教養の未来はどのように再構築可能か
Photo : 妻籠宿 脇本陣奥谷の斜光 / 比呂池 / Adobe Stock
Posted by local knowledge on December 20th, 2024
今や日常的に使う言葉としてはほとんど登場しないユニバーサルサービス(universal service)という概念があります。これは「いつでも、どこでも、誰もが、十分に安価もしくは無料で利用できる公共性の高いサービス」のことで、電気・ガス・水道などの社会インフラ系サービス、医療・教育・福祉などのような財政投入型サービス、そして放送・通信・郵便などのコミュニケーション系サービス、などがあります。
「最低限のユニバーサルサービス」のレベルがどの程度高いかがその国のある種の豊かさの指標になっているのは間違いなく、日本はそれなりに恵まれていたのですが、最近はその辺りが少し怪しくなり始めた、充分に安価で安心とは言い難い、と実感されている方も増えているはずで、これが今、宇沢弘文(1928-2014)の名著『社会的共通資本』 が改めて注目されている理由の一つでしょう。また、震災などで物理的なダメージを受けたインフラ系サービスが、どの程度の時間で「復旧するか」までがユニバーサルサービスの真の実力だと考えると、日本はその制度設計も含めかなり脆弱な状況に追い込まれているのは皆さんご承知のところかと思います。
通信というユニバーサルサービスもいまだに輻輳(ふくそう:congestion)という現象を技術的に、そして制度設計的に解消できない状況が続いています。菅政権時に実施された携帯電話料金のダンピングは、ポピュリズムとしてはウケが良かったのかもしれませんが、結果としてユニバーサルサービスを担うはずのキャリア(オペレータ)の基礎体力(研究開発力)を奪う行為になったことは大いに反省すべきでしょう。ですから緊急時・災害時に頼りになるのはやはり地上波(=公共放送)だな、と実感するわけですが、その当事者が「昔に比べて儲からなくなった。テレビの未来は暗い」とボヤくだけなのをみていると、YoutubeやNetflix(ネットフリックス)全盛時代における公共放送が再構築すべきユニバーサルサービスとはどのようなものか、にもう少しアタマ使えよ、と言いたくなります(ちなみにCMを見ることを前提にした無料の民放は、受信料を徴収するNHKよりもより一層“公共性が高い”はずですから、公共放送=NHKではない、と個人的には考えます)。
さて、文化人や教養人であることを自認する方が最も“やってはいけないこと”が「ぼんやりテレビを眺めること」でして、メディアの最先端にいると自覚している私の仕事仲間にも「テレビは見ない。新聞の購読もやめた」という人が多い(ちなみに「書籍など電子書籍で充分」と嘯いている人ほど本当の読書家だったりはします)のですが、なぜテレビを見ないという生活態度が豊かな教養につながる、と考える人が(それなりに)いるのかの源流を辿ってみると「一億(総)白痴化」という評論家の故・大宅壮一が生み出した流行語(1957年)に行き当たります。「テレビで流される低俗な番組ばかりを見ていても馬鹿になるだけで、教養など身につかない」というわけです。
しかしこの辺りの歴史を丹念に読み解いた、今回話題提供いただく佐藤卓己さんによれば「いや、そうとも言い切れないよ」ということになります。それを実証したのが今回のウェブイベントの副読本『テレビ的教養: 一億総博知化への系譜』です。「白痴」が「博知」に置き換わっているところが本書の真髄です。テレビが登場した頃は、実はテレビ番組と教養との関連についての熱い議論がおこなわれていたことを明かすと同時に、あまり本を読む機会のない人に対する最低限の「教養と教育」を提供しようとする良質な番組が多く生まれました。そして本書では「テレビ的教養」がよりよい輿論(よろん)をうみだすための公共圏への入口であることを示しています。「最低限のユニバーサルサービスとしてのテレビ」のレベルは案外(昔は)高かった、というわけです。
これからテレビをどう育てていくべきかのヒントが満載の講義になると思います。1月17日(金曜)17時開始です。ぜひご参加ください。
https://www.localknowledge.jp/2024/12/1842/
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